大元帥 |
天皇(陸海軍の最高指揮官) |
将官 |
大将 |
大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍では将官の最上級であり、すなわち軍人の最上級です。参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣、軍司令官や聯合艦隊司令長官などに就任しました。陸軍大将には、西郷隆盛や栗林忠道、海軍大将には山本五十六等がこの階級でした。
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中将 |
陸軍では、数万から十万程度の兵員を擁する軍の司令官となり、作戦の指揮をとりました。海軍では、主に艦隊の司令長官を努めました。
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少将 |
陸軍では、1500名-6000名からなる旅団の長として指揮をとりました。海軍では、小規模な艦隊や戦隊の司令官を努めました。
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佐官 |
大佐 |
陸軍では、3000人程の連隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、戦艦、航空母艦、巡洋艦等の比較的大型の軍艦の艦長を努めました。責任が重く、軍艦が沈む際は、艦長も責任を取って沈んだ場合が多いです。
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中佐 |
陸軍では、1000人程度の大隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、小さな駆逐艦・巡洋艦の軍艦の艦長や副長を務めました。
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少佐 |
陸軍では、300人〜1000人で構成される大隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、軍艦の副長や10名程度の小部隊の分隊長を務めました。また、大尉から少佐に昇進する時に特別な専門教育を受けます。これは少佐以上の階級の軍人は一つの作戦単位の指揮官となることを求められるからで、出世の1つの壁となっていました。
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尉官 |
大尉 |
陸軍では、150人程度の中隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、10名程度の小部隊の分隊長として、作戦を指揮しました。
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中尉 |
陸軍では、30〜50人程度の小隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、機関長とか艦内の各科の長を努めました。また、航空隊では3機編隊4個で12機くらいの航空機を指揮しました。
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少尉 |
陸軍では、30〜50人程度の小隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、主に軍艦の乗組士官として航海長や機関長等の科の長を補佐しました。士官学校(陸軍士官学校、海軍兵学校)の出身者(幹部候補生)は半年くらいで少尉となりました。
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下士官 |
曹長(陸軍)
上等兵曹(海軍) |
陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、駆逐艦クラス(120-250名程度)の軍艦の工作科の長として指揮をとりました。
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軍曹(陸軍)
一等兵曹(海軍) |
陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、十数名の部下を持ち、指示を出しました。また、各兵種(飛行兵や整備兵など)においては極めて高度な知識と技能が要求されました。
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伍長(陸軍)
二等兵曹(海軍) |
陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、10名程度の組織の長として指揮をとりました。ちなみに、伍は文字の作りのとおり5人という意味で、古代の中国の軍隊が5人を最小単位として編成したことにもとづきます。
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兵 |
兵長 |
陸軍では、班長として、数名の部下に対して部下に対して上からの指示を伝えました。海軍では、数名の部下を持ち上からの指示を下へ伝える役割を担っていました。
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上等兵 |
陸軍では、一等兵、二等兵からみて憧れの存在で、優秀者とみられていました。海軍では、機械操作などに長けており重宝されていました。
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一等兵 |
陸軍・海軍ともに軍人としての所作や小銃の運用技術等の基本的な訓練課程を終えると一等兵に昇格しました。大正・昭和期では、ほとんどの現役兵は一等兵となりました。
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二等兵 |
入隊して1年目は「初年兵」とも呼ばれていました。大正時代に在営期間が2年間となって以降、1年後には全員が一等兵に進級するシステムとなりました。
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