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日本軍(旧日本軍)の階級・組織をまとめてみた

今日の会社にさまざまな役職があるように、旧日本軍でも組織を取りまとめる

為に大尉、大佐、大将等、様々な階級がありました。

早速、旧日本軍の階級・組織についてまとめてみるです。



上の図が日本陸海軍の組織図となります。大日本帝国憲法では、

陸軍・海軍は憲法上内閣から独立し、天皇に属する組織となっていました。

陸軍においては陸軍大臣(陸相)参謀総長(総長)教育総監(総監)

が天皇を除く最高位にあり、海軍においては軍政を掌握する海軍大臣(海相)

軍令を掌握する軍令部総長の二人が最高位となっていました。

上の図を見ればわかるように、戦争に関しては陸軍・海軍の意向が強く反映される

ようになっておりその結果、日本は、日中戦争・太平洋戦争へと突き進む事となって

しまいました。(太平洋戦争開戦時:首相及び陸軍大臣は東条英機

陸軍参謀総長は杉山元、海軍大臣は嶋田繁太郎、海軍軍令部総長は永野修身

連合艦隊司令長官は山本五十六でした。)

次は日本陸軍の軍隊の単位を見てみましょう。

陸軍の単位
総軍
陸軍の編成において、1つの戦域を担当する最上級単位です。太平洋戦争開戦時には、日中戦争の解決を目的として編成された支那派遣軍、東南アジア方面の全陸軍を担当する南方軍が存在しました。司令官は大将が努めました。

方面軍
日中戦争開戦時は方面軍はありませんでしたが、太平洋戦争終戦時には17個の方面軍が存在しました。1つの方面軍に10万人以上の兵が割り当てられました。司令官は大将または中将が努めました。


日中戦争開戦以前は、朝鮮軍、台湾軍、関東軍、支那駐屯軍の4軍がおかれていました。太平洋戦争開始後、多数の軍が設置されました。数個(2〜5個)の師団で編成されていました。司令官は中将が努めました。

師団
地域または期間的に独立して、1作戦を遂行できる能力を持つ最小単位の集団です。2-4個の連隊からなり、6千-2万人程度の兵員規模を有しました。師団長は中将が努めました。

旅団
1500名-6000名程度の兵員によって構成される部隊です。太平洋戦争時、旅団は師団内旅団タイプと位置づけられ、歩兵旅団が大半を占めていました。旅団長は少将が努めました。

連隊
連隊の人員は3000人程度で、同一兵科で編成される最大の部隊です。歩兵連隊、騎兵連隊、砲兵連隊、戦車連隊等がありました。連隊長は大佐または中佐が努めました。

大隊
2-6個の中隊で編成される組織(300人-1000人)の事を大隊と言います。一般的には1個歩兵大隊あたり、12丁程度の機関銃を保有しており、軽火砲や迫撃砲などを装備していました。大隊長は少佐が努めました。

中隊
歩兵なら200人、砲兵では4門〜6門で編成される部隊の事を言います。中隊長は大尉が努めました。

小隊
小隊は概ね2〜4個の分隊で編成され、兵員は30人〜50人程度でした。指揮官は少尉・中尉が努めました。

分隊
下士官(曹長・軍曹・伍長)によって指揮される10名程度の小部隊の事を言います。1丁程度の軽機関銃、軽迫撃砲を装備していました。


人数は4〜6人で編成され、班長および班員で構成されていました。


班内で役割を分担する場合に2〜3人程度の組に分けられました。


次は、日本陸軍・海軍の階級図です。

大元帥 天皇(陸海軍の最高指揮官)
将官
大将
大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍では将官の最上級であり、すなわち軍人の最上級です。参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣、軍司令官や聯合艦隊司令長官などに就任しました。陸軍大将には、西郷隆盛や栗林忠道、海軍大将には山本五十六等がこの階級でした。

中将
陸軍では、数万から十万程度の兵員を擁する軍の司令官となり、作戦の指揮をとりました。海軍では、主に艦隊の司令長官を努めました。

少将
陸軍では、1500名-6000名からなる旅団の長として指揮をとりました。海軍では、小規模な艦隊や戦隊の司令官を努めました。

佐官
大佐
陸軍では、3000人程の連隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、戦艦、航空母艦、巡洋艦等の比較的大型の軍艦の艦長を努めました。責任が重く、軍艦が沈む際は、艦長も責任を取って沈んだ場合が多いです。

中佐
陸軍では、1000人程度の大隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、小さな駆逐艦・巡洋艦の軍艦の艦長や副長を務めました。

少佐
陸軍では、300人〜1000人で構成される大隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、軍艦の副長や10名程度の小部隊の分隊長を務めました。また、大尉から少佐に昇進する時に特別な専門教育を受けます。これは少佐以上の階級の軍人は一つの作戦単位の指揮官となることを求められるからで、出世の1つの壁となっていました。

尉官
大尉
陸軍では、150人程度の中隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、10名程度の小部隊の分隊長として、作戦を指揮しました。

中尉
陸軍では、30〜50人程度の小隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、機関長とか艦内の各科の長を努めました。また、航空隊では3機編隊4個で12機くらいの航空機を指揮しました。

少尉
陸軍では、30〜50人程度の小隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、主に軍艦の乗組士官として航海長や機関長等の科の長を補佐しました。士官学校(陸軍士官学校、海軍兵学校)の出身者(幹部候補生)は半年くらいで少尉となりました。

下士官
曹長(陸軍)

上等兵曹(海軍)

陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、駆逐艦クラス(120-250名程度)の軍艦の工作科の長として指揮をとりました。

軍曹(陸軍)

一等兵曹(海軍)

陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、十数名の部下を持ち、指示を出しました。また、各兵種(飛行兵や整備兵など)においては極めて高度な知識と技能が要求されました。

伍長(陸軍)

二等兵曹(海軍)

陸軍では、10名前後の分隊の長として作戦の指揮をとりました。海軍では、10名程度の組織の長として指揮をとりました。ちなみに、伍は文字の作りのとおり5人という意味で、古代の中国の軍隊が5人を最小単位として編成したことにもとづきます。

兵長
陸軍では、班長として、数名の部下に対して部下に対して上からの指示を伝えました。海軍では、数名の部下を持ち上からの指示を下へ伝える役割を担っていました。

上等兵
陸軍では、一等兵、二等兵からみて憧れの存在で、優秀者とみられていました。海軍では、機械操作などに長けており重宝されていました。

一等兵
陸軍・海軍ともに軍人としての所作や小銃の運用技術等の基本的な訓練課程を終えると一等兵に昇格しました。大正・昭和期では、ほとんどの現役兵は一等兵となりました。

二等兵
入隊して1年目は「初年兵」とも呼ばれていました。大正時代に在営期間が2年間となって以降、1年後には全員が一等兵に進級するシステムとなりました。

第1話:太平洋戦争の原因(開戦の経緯)

補足:日本軍(旧日本軍)の階級・組織をまとめてみた

第2話:真珠湾攻撃(ハワイ奇襲)とは?

第3話:マレー作戦(マレー・シンガポール進攻作戦)とは?

第4話:香港の戦い(香港攻略・C作戦)とは?

第5話:マレー沖海戦とは?

第6話:珊瑚海海戦とは?

第7話:ミッドウェイ海戦とは?(敗因)

第8話:前編:ガダルカナル島の戦いとは?(第一次ソロモン海戦)

第9話:後編:ガダルカナル島の戦いとは?(第二次ソロモン海戦)

第10話:マリアナ沖海戦とは?

第11話:レイテ沖海戦とは?[神風特攻隊(特別攻撃隊)の誕生]

第12話:硫黄島の戦いとは?

第13話:沖縄戦(沖縄の戦い)とは?

第14話:日本本土空襲とは?

第15話:日本の降伏(ポツダム宣言受諾)とは?
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